因果律は宗教的なものでは無く、「原因のない結果はない。」という普通の考え方です。
宗教的にとられるのは、今も原因が解明できない結果が多くあるからです。
理不尽な結果に苦しむ思いが、宗教にたどり着いてしまうのでしょう。
他を信じても答は見つかりません。
自分の中にしか答はありません。
例えば、目線上空に、時折あらわれる小さな光や地面近くにあらわれる暗い靄の塊も
人によっては天使や幽霊に見えるでしょうし、
爬虫類の瞳をのぞかせる人の目も、人によっては三つ目や黒一色の瞳に
見えるでしょう。
意識下で見る景色は人によって違います。
意味さえ変わる景色を伝えたところで無意味です。
信じたところで無意味です。
日常、当たり前の暮らしで気付く以外、方法がありません。
つまらない事、どうでもいい事の中にも意味はあります。
自分の知らなかった事実が多く存在します。
大切な人の小さな事に気付いてください。
自分勝手な思い込みや都合で結論をださないでください。
特に子供の成長は早く、大人の事情を察する頃には
おおきな迷いを経験します。
あなたへの愛情ゆえに無理に笑顔を見せているだけかも知れません。
当たり前の話ですが、大切な人の幸せがなければ自分の幸せも手に入りません。
そして求める幸せの形が違っていても当たり前です。
同じを求めて我を通しても無意味です。
大切な人はどこにあっても大切なはずです。
因果律もバランスの一部です。
地球の軸の角度や太陽の公転距離が狂うだけで人類は絶滅します。
絶妙なバランスの中で全ての存在があります。
意識も多面なバランスの中で存在しています。
見せている一面が「私」の全てではありません。
多面な意識全てが「私」です。
例え多重人格者であっても「私」は一つです。
それでも見せている一面が、最も他のバランスと影響しあい
因果律と絡んでくることも事実です。
多面な意識を一つにはできませんが、少ない決めごとを核とする事は可能です。
寛容さであったり、滅私であったり、
多くの決め事や細かな決め事は必要ありません。
逆に周りも自分もバランスを歪めるだけです。
歪んだバランスが反動を起こし、結果を変えてしまいます。
バランスの中にこそ因果律は存在しています。
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